祖父の死と僕の名前
祖父が亡くなった、
というメールが実家の母から届いた。
東京にいる僕には
あまり実感が湧かない。
けれども、それは
もう変えようのない事実なのだろう。
祖父はもうこの世にいない。
僕の名前、「朋孝」の「孝」の字は
子の僕にとって、
ものすごくプレッシャーである。
幸い、朋友には恵まれているので
「朋」については及第点だと思っているが、
「孝」は本当に恥ずかしい。
子どもの頃は、大人になったら
存分に親孝行しようと思い、
大人になれば、
社会に出てから孝行しようと思い、
社会に出たら、
それなりの給料をもらって
余裕が出てきてからと思い、
どんどん先延ばしにして
結局やらないのだから、不孝の極みだ。
祖父が僕にしてくれたことは
数え切れないほどあって、
それに対して僕は何一つ
お返しができていない。
お返しなんて要らない、
僕が正しく幸せに生きてくれれば
それでいいんだよと
祖父は言うかもしれない。
でも、
誰かに幸せになってもらいたいと願う時、
多大な労力、お金や時間がかかる
ということを、僕は知っている。
それだけ費やして
何の見返りも得られない時の
寂しさを知っている。
だから、祖父が僕に
してくれたことを思うと、
後悔ばかりが募ってくる。
せめて親には
孝行しなくてはならない。
親もいつまで元気でいるか分からないし、
自分だって、いつ死ぬか分からない。
深く無常を念じて
本当にすべきことをし、
真に孝行な人生にしたいと思う。
DUSTについて
時間を忘れてDUSTを眺め、
配置を変えては写真を撮って
Facebookに投稿して
この作品の圧倒的な技術の高さを
外に紹介したつもりになっていたが、
5日経って、ようやく気づいた。
僕の仕事は文章を書くことだ。
写真を撮ることではない。
だから、書いて伝えねばならない。
DUSTがどんなにすごい作品なのか、
ということを。
芸術は、趣味、嗜好品、教養であり、
有っても無くても良いが
有ったほうが豊かな生活が送れる
という程度に思うかもしれない。
しかし、良い作品は、そんな
あってもなくてもどっちでもいい
というようなものではない。
生きるために必要なものだ。
初めてお会いしたとき、
彼女は、
写真家とカメラマンの違いを
僕に話した。
どちらも、写真を撮ることを
生業にしているという点では同じだが、
カメラマンは
クライアントに言われたとおりに
撮影しなければならないのに対し、
写真家は
自分が本当に撮りたいものを
とことん追い求めることができる。
しかしながら、実際は
99.9%がカメラマンで、
プロの写真家は数えるほどしかいない。
私は、カメラマンではなく
写真家として生きたい、
いや、
写真家としてしか
生きられないから、
今、必死に腕を磨いているんです。
そういった内容のことを
彼女は、淡々と
さも当たり前のことのように
僕に話したが、
その言葉は力強く、覚悟が見えた。
プロだ、と僕は思った。
自分はどうしようもなく写真家である
と思い定めて、
日々、制作に打ち込み、
一流の技術をもって
つくり上げられた作品が
趣味的であるはずがない。
圧倒的な技術力に
ただ茫然とする。
そして、不思議と
心に勇気を与えてくれる。
まさに、本物だ。
生きるためのエネルギーが
ここにつまっている。
そういえば、仏教では宇宙のことを
「十方微塵世界」や「塵刹」と言い、
果てしなく広がる宇宙空間の中で
地球という惑星も、ほんの塵芥に過ぎない
と説かれる。
その地球の中の、さらに
塵屑のような存在である私が、
今、生きて何をなすべきか、
問われているようだ。
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26.7.5 5:35
DUSTについて
http://me1t.exblog.jp/22866930/
Miki Kitazawaさんについて
http://www.mikikitazawa.com/
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朝7時、JR渋谷駅新南口にて
最近、朝、友人とミーティングをしています。